浜松の三方原台地で家康ゆかりの地をめぐるウォーキングコース

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静岡県浜松市北区に広がる三方原台地は、平坦な地形を生かしたウォーキングコースが整備されており、徳川家康が生涯唯一とされる大敗を喫した三方ヶ原の戦いの史跡が随所に残っています。台地上の三方原古戦場碑や犀ヶ崖古戦場から、浜松城下の浜松八幡宮や鎧掛松まで、家康の敗走にまつわるスポットを歩いてたどることができます。起伏の少ない台地の道は初心者でも歩きやすく、赤土の畑地が広がる農村風景と歴史散策を同時に楽しめるのが、このコースの魅力です。この記事では、三方原台地の成り立ちや開拓の歴史を押さえたうえで、家康ゆかりの史跡をめぐるウォーキングコースの見どころとモデルルートを紹介します。

目次

三方原台地は東西10キロ・標高25〜110メートルの隆起扇状地

三方原(みかたはら)は、静岡県南西部の浜松市中央区・北区にまたがる台地で、天竜川以西、浜名湖以東のあいだに東西約10キロメートル、南北約15キロメートルにわたって広がっています。標高はおよそ25メートルから110メートルで、天竜川が運んだ土砂が扇状地を形成したのち長い年月をかけて隆起した、隆起扇状地とされています。北東部の標高約100メートルの高台から南へゆるやかに標高を下げていく地形で、南端部には20メートルほどの高低差を持つ海食崖も見られます。

台地の東側は天竜川、北側は都田川に区切られ、西側は浸食谷の発達によって浜名湖の水域が入り込み、南側は遠州灘に面する海食崖となっています。地表は礫層の上にローム層が堆積した酸性土壌に覆われ、いわゆる赤土と呼ばれる痩せた土壌が広がっているのが特徴です。土壌がやせて地下水位も深いため、もともとは農業に不向きな土地とされてきました。一方で台地の表面は大部分が平坦で見晴らしがよく、勾配のきつい坂道が少ないため、ウォーキングやサイクリングに向いた地形になっています。

三方原用水の完成で不毛の台地から農業地帯に生まれ変わった

三方原台地は天竜川や浜名湖のすぐそばにありながら、高台まで水を引く手段がなかったため、古くから慢性的な水不足に悩まされてきました。明治2年(1869年)には、気賀(現在の浜松市北区細江町)の商人だった気賀林らによって開拓が始まったとされています。江戸幕府の滅亡で職を失った旧幕臣や旗本がこの台地に移住して開墾を進め、明治期には茶の栽培が盛んになりました。

水の確保という課題は長く残り続けましたが、昭和35年度に始まった国営三方原用水事業により、秋葉ダムを水源として農業用水・水道用水・工業用水を総合的に供給する体制が整えられました。昭和42年(1967年)に三方原用水が完成すると、不毛の台地と呼ばれ続けたこの土地は、多彩な農産物を生み出す豊穣の台地へと姿を変えていきます。

現在の三方原台地を代表する農産物が、5月後半から7月ごろのわずか2か月ほどしか出回らない新じゃがいも、三方原馬鈴薯です。台地特有の赤土で育つこのじゃがいもはでんぷんを豊富に含み、蒸したときのほくほくとした食感が特長で、地元ではじゃがバターなど素材の味を楽しむ食べ方が親しまれています。収穫後には裏作として漬物用の大根が栽培され、秋の収穫風景が台地の風物詩になっています。日照時間の長さを生かした茶の栽培も盛んで、葉肉の厚い茶葉から作られる深蒸し茶はコクと甘みが特徴です。新玉ねぎやセロリ、トマト、みかんなども栽培されており、JA三方原開拓が運営する直売所「土の市」(浜松市北区三幸町)やJAとぴあ浜松のファーマーズマーケット三方原店では、こうした地元産の野菜や果物が並びます。ウォーキングの合間に立ち寄る楽しみのひとつです。

台地内には南北方向に国道257号(金指街道)、東西方向にも国道257号(環状線)、県道の姫街道などの主要道路が交差し、東名高速道路も台地を縦断しています。平成29年(2017年)3月には三方原スマートインターチェンジも開通し、車での訪問がしやすい立地になりました。

三方ヶ原の戦いは家康生涯唯一の大敗、兵力差2倍以上で決着

三方原台地の歴史を語るうえで欠かせないのが、元亀3年12月22日、西暦では1573年1月25日にこの台地一帯で繰り広げられた三方ヶ原の戦いです。当時、遠江・三河を治めていた徳川家康は、上洛を目指して西進してきた甲斐の武田信玄の軍勢を迎え撃つべく、居城の浜松城から出陣しました。しかし兵力・戦略の両面で武田軍に及ばず、家康軍は三方原台地の上で壊滅的な敗北を喫します。これは家康の生涯において唯一とも言われる大敗北です。

信玄は元亀3年(1572年)10月に甲府を出発し、信州伊那谷から青崩峠・兵越峠を越えて遠江へ侵入、掛川や二俣といった徳川方の諸城を次々と攻略しながら南下してきました。同年12月22日、信玄はいったん浜松城に迫りながらもあえて攻撃を仕掛けず、進路を西へ転じて三方原台地の上へ向かいます。これを家康は、自分を見くびって素通りしようとしていると受け止め、籠城の意見もある中であえて城を出て追撃する道を選んだとされています。台地の上で家康は急いで鶴翼の陣を敷きましたが、武田軍は魚鱗の陣で応じ、戦いはわずか2時間ほどで決着がついたと伝えられています。動員兵力は武田軍がおよそ2万5000人だったのに対し、徳川・織田連合軍はおよそ1万1000人程度とされ、兵力差に加えて陣形や采配の巧拙も重なり、徳川方は武田方のおよそ10倍にのぼる死傷者を出す大敗を喫したといわれています。

命からがら浜松城へ逃げ帰った家康の敗走の様子は、台地の各所に残る地名や伝説として今なお語り継がれています。

家康にまつわる有名な肖像画のひとつに、疲れ果て苦悩の表情を浮かべた姿を描いたとされる顰像(しかみぞう)があります。長らく三方ヶ原での大敗を生涯忘れないよう家康自身が絵師に描かせた自戒の肖像として語られてきましたが、近年の研究では、この肖像画と三方ヶ原の戦いを結びつける記録が江戸時代の史料には見当たらず、両者を結びつける最も古い記述は明治末期にとどまることがわかってきました。よく知られた逸話と、近年の研究で見直されつつある部分の両方を踏まえて史跡をめぐると、三方原の歴史がより立体的に感じられます。

家康ゆかりの地をめぐるウォーキングコースの見どころ

三方原台地から浜松城下にかけて残る家康ゆかりの史跡は、徒歩でめぐれる範囲に点在しており、家康の散歩道として観光ルートも整備されています。ここでは、台地上の古戦場エリアから、敗走ルートに沿った浜松城下のスポットまで、順を追って紹介します。

三方原古戦場碑は宅地と畑地の中に立つ

三方原台地の一角には、この地が三方ヶ原の戦いの舞台となったことを伝える石碑、三方原古戦場碑が建てられています。現在は宅地や畑が広がる穏やかな風景の中に碑が立ち、かつてこの平坦な台地の上で激しい合戦が繰り広げられたことを想像しながら歩くと、歴史散策の趣が深まります。周囲を見渡しても遮るものが少なく、武田軍と徳川軍が広い台地の上でどう向き合い、それぞれの陣形を敷いたのかを思い描きやすい場所です。

犀ヶ崖古戦場は布橋伝説が伝わる急な崖地形

浜松城から北へ約1キロメートルの位置にある犀ヶ崖(さいががけ)は、三方ヶ原の戦いの後日談として特に有名な史跡です。伝承によれば、大敗した家康は浜松城に籠城したのち、犀ヶ崖付近に陣を張っていた武田軍に夜襲を仕掛けたとされています。徳川方は崖に白い布を張って橋があるように見せかけ、追撃してきた武田軍の兵を誤って崖下へ転落させたという逸話が伝わっており、これが布橋(ぬのばし)伝説として今に伝えられています。夜の闇の中で足元の見えない武田軍の兵が次々と深い谷へ転落したと伝わることから、犀ヶ崖は現在も高所恐怖症の人は注意と紹介されるほどの急な崖地形として知られ、実際に崖の縁に立つと当時の合戦の緊迫感を肌で感じられます。

犀ヶ崖は昭和14年(1939年)に静岡県の史跡に指定され、周辺は緑に囲まれた犀ヶ崖公園として整備されています。園内の犀ヶ崖資料館では、三方ヶ原の戦いに関する資料やジオラマ展示、戦死者の霊を弔うために始まったとされる遠州大念仏の紹介などを見ることができます。遠州大念仏は、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで命を落とした将兵の霊を慰めるため、家康が僧に命じて始めさせたと伝わる郷土芸能で、国の選択無形民俗文化財にも指定されています。毎年7月15日には、発祥の地とされる犀ヶ崖古戦場で笛や鉦、太鼓を打ち鳴らしながら念仏を唱える演舞が奉納されており、遠州地方の夏の夜を彩る風物詩として受け継がれています。資料館の敷地内東側には、犀ヶ崖への夜襲で戦功を挙げたとされる本多肥後守忠真の碑も建てられており、あわせて見学できます。犀ヶ崖資料館は静岡県浜松市中区鹿谷町にあり、開館時間は9時から17時まで、入館料は無料、休館日は月曜日(祝日・振替休日の場合は開館し翌日休館)と年末年始です。ウォーキングの途中に気軽に立ち寄って休憩できる施設になっています。

夏目次郎左衛門吉信の碑は身代わりの忠義譚を伝える

三方ヶ原の戦いにまつわる逸話の中でも語り継がれているのが、夏目次郎左衛門吉信(夏目広次)の忠義譚です。吉信はかつて三河一向一揆に加担して処刑されるところを家康の寛大な処置によって救われた人物で、その恩義を終生忘れなかったとされます。三方ヶ原での敗走の際、吉信は家康の乗る馬の脚を刀の峰で打って強引に方向転換させ、自らは家康の兜をかぶって我こそは家康なりと敵陣に突撃し、身代わりとなって討死したと伝えられています。この物語を伝える石碑は犀ヶ崖古戦場の一角に建てられており、家康ゆかりの地をめぐる散策の重要な立ち寄りポイントです。

浜松八幡宮の雲立のクスは樹齢1000年超の御神木

浜松城下にある浜松八幡宮の境内には、樹齢1000年を超えるとされる御神木、雲立のクスが今も茂っています。三方ヶ原の戦いで敗走した家康が、追手から逃れるためにこの大楠のうろに身を隠したという伝説が残っており、九死に一生を得た家康にまつわる象徴的なスポットとして多くの参拝者や観光客が訪れています。この楠は幹回りおよそ15メートル、枝張りは四方に約25メートル、樹高は約15メートルにおよぶとされ、家康が身を隠した際に木から瑞雲が立ち上ったことから雲立のクスと呼ばれるようになったと伝えられています。白馬に乗った老人の姿をした神霊が家康を浜松城まで導いたという伝承も残っており、開運・出世にご利益があるパワースポットとして現在も多くの参拝者が訪れています。

鎧掛松は敗走の緊迫を伝える一本松

浜松市役所の西側には、鎧掛松(よろいがけのまつ)と呼ばれる場所があります。三方ヶ原の戦いに敗れて命からがら浜松城へ逃げ帰った家康が、脱いだ鎧をこの松に掛けたという伝説にちなんだ名称で、敗走の緊迫した様子を伝える史跡のひとつです。

元城町東照宮は曳馬城跡に立つ

明治19年(1886年)に創建された元城町東照宮は、家康が浜松に入城する以前に拠点としていた曳馬城の跡地とされる場所に立っています。境内の石鳥居のわきには曳馬城跡と刻まれた史跡碑があり、家康が引間の地名を浜松へと改めたという逸話とあわせて、浜松の地名の由来を知ることができます。

浜松城は出世城の異名を持つ家康17年間の居城

徳川家康が元亀元年(1570年)から17年間にわたって居城とした浜松城は、三方ヶ原での大敗をはじめ、正室・築山御前の死などさまざまな苦難を経験した城です。後年、家康がここを足がかりに天下人へと出世したことから出世城の異名でも呼ばれており、現在は復元された天守やその周辺の公園を散策できます。浜松城公園を1周する散策路は約1.5キロメートルで、坂道を含めてしっかりと体を動かせるコースとしても紹介されています。

昭和33年(1958年)に再建された天守閣は、令和3年(2021年)1月に展示のリニューアルが行われ、地下1階から地上3階までの各フロアに「家康浜松に立つ」「人生最大の負け戦-三方原の戦い-」「家康の家臣」といったテーマ展示が設けられました。当世具足の甲冑や、三方ヶ原での敗戦を戒めとして描かせたと伝わるしかみ像の絵画なども展示されており、最上階の展望室からは浜松市街を一望できます。浜松市のマスコットキャラクターとして出世大名家康くんも親しまれており、天守閣周辺で見かけることもあります。

天守閣を取り囲む浜松城公園には、戦国時代の面影を残す石垣のほか、等身大の徳川家康公之像、昭和末期に庭園家の伊藤邦衛によって作庭された日本庭園、浜松市美術館なども整備されており、中央芝生広場は市民の憩いの場としても親しまれています。史跡めぐりの合間にこうした公園内の施設をあわせて散策すれば、家康の生きた時代の空気とともに現代の浜松の街の魅力もじっくりと味わえます。

浜松城公園は桜の名所としても知られ、ソメイヨシノや枝垂れ桜、山桜など約270本から330本の桜が城を取り囲むように咲き誇ります。野面積みの石垣と黒く塗られた城の外壁、桜のコントラストは見ごたえがあり、開花期間中は夜間ライトアップも行われるため、春先にウォーキングコースへ組み込むと歴史散策と花見を同時に楽しめます。例年3月下旬から4月上旬にかけては浜松城公園さくらまつりも開催されており、あわせて訪れるのもおすすめです。

小豆餅と銭取は敗走中の逸話が残る地名

三方ヶ原での敗戦後、浜松城へ逃げ帰る途中の家康にまつわる、ユーモラスながらも生々しい伝説が残る地名が小豆餅(あずきもち)と銭取(ぜにとり)です。伝承によれば、敗走中の家康は小さな茶店に立ち寄って小豆餅を食べたものの、武田軍の追っ手が迫っていることに気づき、代金を払わないまま逃げ出してしまいます。すると茶店の老婆が銭を置いていけと家康を追いかけ、ついに追いついて代金を受け取ったという逸話が伝わっており、家康が小豆餅を食べた場所が小豆餅、老婆が代金を取り立てた場所が銭取という地名として、現在も浜松市中区に残っています。両地点の距離はおよそ6キロメートルにおよび、命がけの敗走の中でも老婆に追いつかれてしまったという逸話は、家康の人間味を伝える話として親しまれています。現在小豆餅は正式な町名として残っていますが、銭取は町名としては残っておらず、遠鉄バスの停留所名としてその名残をとどめています。この故事にちなみ、地元では小豆餅・銭取の名を冠した和菓子も販売されています。

龍泉寺・阿弥陀橋跡は敗走ルート沿いに点在

三方ヶ原の戦いにまつわる伝承地をたどっていくと、浜松市東区半田山の龍泉寺や、浜松市高林にあったとされる阿弥陀橋跡など、家康の敗走ルートに沿ったとされる地点が台地からまちなかにかけて点在していることがわかります。家康が一直線に城へ戻ったのではなく、追っ手を逃れながらあちこちを転々としていた様子がうかがえる史跡群で、地図を片手にこれらの地点をたどってみると、当時の緊迫した状況をよりリアルに感じられます。

三方原墓園も古戦場のひとつに数えられる

JR浜松駅から北へ約12.5キロメートル、三方原台地の一角に位置する三方原墓園も、三方ヶ原の戦いの古戦場のひとつとされる場所です。広大な敷地内にはエントランス広場や日本庭園、芝生広場などが整備されており、静かな環境の中で台地の歴史に思いをはせることができます。

姫街道と気賀関所にも家康の足跡が残る

三方原台地は、東海道の脇往還として知られる姫街道(本坂通)が通過するエリアでもあります。姫街道は見付宿から浜名湖の北岸を迂回して御油宿へと至る街道で、江戸時代の正式名称は本坂通でした。街道沿いには市野宿・気賀宿・三ヶ日宿・嵩山宿などの宿場が置かれ、市野宿の西側や三方原台地の上には、当時の面影を伝える松並木が続いていたと伝えられています。

姫街道の要所である気賀宿の入り口には気賀関所が設けられていました。この関所は慶長6年(1601年)に徳川家康によって創設されたもので、新居関所と並び、江戸への鉄砲の持ち込みや、参勤交代で江戸に住む大名の妻女が無断で領国へ帰る入り鉄砲に出女を厳しく取り締まる役割を担っていました。三方ヶ原の戦いから浜松城主としての治世、さらには江戸幕府開府後の交通・治安政策まで、家康と三方原台地の関わりは長い時間軸で続いていたことがわかります。ウォーキングの範囲を少し広げて、気賀関所や姫街道の松並木跡まで足を延ばしてみるのも、台地の歴史をより深く知る方法のひとつです。

モデルコースは台地エリアと城下エリアの2ゾーンで計画する

家康ゆかりの地を効率よくめぐりたい場合、大きく分けて台地エリア(三方原古戦場碑・犀ヶ崖・三方原墓園など)と城下エリア(浜松城・元城町東照宮・浜松八幡宮・鎧掛松など)の2つのゾーンで考えると計画が立てやすくなります。浜松市内で紹介されている観光ルートでは、浜松駅を起点に東照宮や浜松城を経由するコースが、ポイント全15か所、全長約10キロメートル、徒歩約2時間ほどが目安とされており、半日あれば主要スポットを歩いてめぐれます。

台地エリアを中心に歩く場合は、犀ヶ崖資料館を起点として犀ヶ崖公園、夏目吉信の碑、本多忠真の碑を見学したのち、三方原古戦場碑や三方原墓園方面へ足を延ばすルートがおすすめです。台地上は起伏が少なく見通しがよいため、じゃがいも畑など三方原ならではの農村風景を楽しみながら比較的歩きやすいコースになっています。時間や体力に余裕があれば、小豆餅・銭取の地名をたどりながら城下エリアの浜松八幡宮、鎧掛松、元城町東照宮、浜松城へと歩を進め、家康の敗走から浜松城帰還までの一連の流れを追体験するルートに挑戦するのもよいでしょう。

歩く際に気をつけたいのが、三方原台地特有の気候です。この地域は冬場、遠州のからっ風と呼ばれる強く乾いた北西風が吹くことで知られています。濃尾平野や伊勢湾を吹き抜けた冬の北西季節風が奥三河の山地に沿って向きを変え、遠州地方に強い西風として吹き下ろすために起こる現象で、平坦で遮るもののない三方原台地の上では、この風の影響を特に受けやすくなります。冬にウォーキングを計画する場合は、防風・防寒対策をしっかりと行うことをおすすめします。台地上は日差しを遮る場所が少ない区間もあるため、夏場は熱中症対策として飲み物や帽子を準備しておきたいところです。風も日差しも比較的穏やかな春や秋の時期が、三方原台地を歩くにはもっとも適したシーズンといえます。犀ヶ崖資料館や浜松城など休憩や見学ができる施設をルートに組み込みながら、無理のないペースで歴史散策を楽しむとよいでしょう。台地上を歩いた後には、JA三方原開拓の直売所「土の市」やJAファーマーズマーケット三方原店に立ち寄り、旬の三方原馬鈴薯や地元野菜を買い求めるのも、このエリアならではの楽しみ方です。

大河ドラマ「どうする家康」の経済波及効果は318億円

三方原台地や浜松城の知名度は、令和5年(2023年)に放送されたNHK大河ドラマ「どうする家康」によって大きく高まりました。浜松城のそばには特設会場としてどうする家康浜松大河ドラマ館が同年3月にグランドオープンし、家康と武田信玄の関わりや三方ヶ原の戦いを中心に、ドラマの世界観をより深く楽しめる展示や4K映像が公開されました。浜松市が独自に算出した経済波及効果は318億円で、同じく大河ドラマの舞台となった静岡市の120億円を大きく上回りました。浜松市は平成29年(2017年)の大河ドラマ「おんな城主直虎」でも舞台のひとつとなっており、その際の経済波及効果207億円をも上回る結果です。家康が29歳から45歳までの17年間を過ごし、三方ヶ原の戦いで苦杯をなめた土地として、浜松と三方原台地はドラマをきっかけに改めて全国的な注目を集めました。

アクセスは遠鉄バスか三方原スマートICが便利

三方原台地や犀ヶ崖周辺へは、JR浜松駅から遠鉄バスを利用してアクセスするのが一般的です。浜松駅からは聖隷三方原病院方面へ向かう系統(所要時間約15分)や、聖隷三方原を経由して金指・神宮寺・奥山方面へ向かう系統(所要時間約50分)、内野台・医大を経由して聖隷三方原方面へ向かう系統(所要時間約50分)など、複数の路線バスが運行されています。犀ヶ崖資料館へは浜松北高バス停が最寄りとされており、浜松駅からバスで気軽に向かえます。目的のスポットに応じてバス路線を使い分けるとよいでしょう。

車でのアクセスの場合は、台地内を縦断する東名高速道路の三方原スマートインターチェンジが平成29年(2017年)3月に開通しており、遠方から訪れる際の利便性が大きく向上しました。国道257号(金指街道・環状線)や県道の姫街道(本坂通)も台地内を通っているため、車でスポットを巡りながら要所要所で歩いて史跡を見学するという楽しみ方もできます。

台地の歴史と農業の両方を味わえるコース

三方原台地は、戦国時代に徳川家康が生涯唯一とも言われる大敗を喫した歴史の舞台であると同時に、明治以降の開拓と用水事業によって不毛の台地から豊穣の台地へと生まれ変わった、開拓の歴史を刻む土地でもあります。犀ヶ崖古戦場や三方原古戦場碑、夏目吉信の碑といった合戦にまつわる史跡から、小豆餅・銭取のようなユーモラスな地名伝説、さらには浜松城や浜松八幡宮といった城下の史跡まで、家康ゆかりのスポットが台地からまちなかにかけて点在しています。

平坦で歩きやすい台地の地形を生かし、歴史散策とあわせて三方原馬鈴薯などの地元グルメも楽しめる三方原台地のウォーキングコースは、戦国時代の史跡に関心がある人はもちろん、浜松の自然や農業の歴史に触れたい人にとっても魅力的なルートです。犀ヶ崖の布橋伝説や夏目吉信の身代わりの逸話、小豆餅・銭取のユーモラスな地名の由来など、三方原台地には家康の九死に一生を伝える物語が随所に息づいています。同時に、明治以降の開拓者たちの苦労と三方原用水によって切り拓かれた農業の歴史、姫街道と気賀関所が伝える街道文化、大河ドラマ「どうする家康」を機に再び注目を集めた出世城・浜松城など、この地域には幾重にも重なる歴史の層があります。地図や資料館の展示を参考にしながら、季節や体力に合わせてコースを選び、家康が九死に一生を得て歩いたとされる道のりを自分の足でたどってみると、台地に吹く風や畑の景色を感じながら、戦国時代の緊迫した空気と現在の穏やかな三方原の暮らしの両方を味わえます。

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