長野市松代町にある松代城跡を起点に、真田家の家紋である六文銭にちなんだ史跡を巡るウォーキングコースは、徒歩2〜3時間で主要な文化財を一巡できます。六文銭は真田家の家紋として知られ、松代城下町の随所にこの紋章が掲げられています。長野駅からバスで30分というアクセスの良さもあり、日帰りの歴史散策先として選ばれることが多いコースです。
松代は戦国時代に武田信玄が築いた海津城を前身とし、江戸時代には真田家十万石の城下町として栄えました。幕末には佐久間象山を輩出し、昭和には松代大本営の建設地にもなるなど、一つの町に複数の時代の歴史が積み重なっています。この記事では、六文銭に込められた意味から松代城の歴史、ウォーキングコースの具体的なルート、各施設の入館料やアクセス方法まで、実際に歩く際に役立つ情報をまとめました。

六文銭は滋野一族に伝わる家紋で真田家が旗印として用いた
松代の町を歩くと、のぼり旗やマンホール、土産物店の看板など、いたるところで六つの銭が並んだ紋章を目にします。これが真田家の代表的な家紋、六文銭です。六連銭と呼ばれることもあります。
この紋章は真田家が独自に考え出したものではなく、真田氏のルーツにあたる信濃国小県郡の滋野一族、海野氏・望月氏・真田氏の間で広く使われてきた家紋だとされています。『滋野通記』には、海野小太郎が水島の戦いの際、海面に渦巻く波が銭の連なりのように見えたことから旗印に用いたという逸話が記されているそうです。
真田家が六文銭を旗印として本格的に掲げるようになった時期については、いくつかの説があります。真田幸隆が武田信玄に仕えた際に採用したという説、あるいは武田家の滅亡後に北条氏との戦いで永楽通宝を描いた旗を掲げて夜襲を成功させ、それが六文銭に変化していったという説などが伝わっています。
六文銭といえば、仏教における三途の川の渡し賃、つまり死を恐れず戦に臨む覚悟の象徴として語られることが多いです。ただし近年の研究では、六文銭は本来死の覚悟を示すものではなく、戦の象徴や馬と結びついた繁栄の証だったとする見方も出てきているようです。真相がどうであれ、六文銭は真田家が数々の合戦を生き抜いた気概を示す紋章として、現在も松代の町全体のシンボルになっています。
松代城は武田信玄が築いた海津城が前身で川中島の戦いの最前線を担った
松代城下町の中心にあるのが、国指定史跡の松代城跡です。この城は元々海津城と呼ばれ、戦国時代に武田信玄の命で築かれました。築城には知将・山本勘助が関わったとされ、甲州流築城術の模範ともいわれる縄張りを持ちます。永禄3年ごろに完成したと推定されており、川中島平を一望できる戦略的な要衝に位置していました。
海津城は、武田軍と上杉謙信軍による川中島の戦いで、武田方の最前線基地としての役割を担いました。第四次川中島の戦いでは、海津城から3キロほどの妻女山に布陣した上杉軍が朝霧に紛れて山を下り、八幡原で武田信玄の本隊を奇襲するという激戦が繰り広げられ、山本勘助をはじめとする武田軍の重臣が討ち死にしています。日本の戦国史でも屈指の名場面として語り継がれる合戦です。
武田家の滅亡後、海津城は織田信長配下の森長可の居城となりましたが、本能寺の変が起こると放棄されました。その後は田丸直昌、森忠政、松平忠輝、松平忠昌、酒井忠勝と城主が短期間で入れ替わる時期が続きました。転機となったのは元和8年、真田信之が上田から松代へ移封されたことでした。これ以降、明治維新に至るまで真田家が代々藩主を務め、城の名も松代城へと改められています。
信之の松代転封は単純な国替えではありませんでした。山形藩最上氏の改易にともなって庄内藩主だった酒井氏が移動し、あわせて徳川秀忠の次男・徳川忠長へ小諸7万石が加増されたため、仙石氏が小諸から上田へ、真田氏が上田から松代へと玉突きで領地を入れ替える形になったのです。当時、上田城の修築を指揮していた信之は幕府から江戸に呼び出され、突然松代への移封を告げられたと伝わります。信之は上田藩主時代に蓄えたおよそ20万両の大金を携えて松代に入り、明暦3年に92歳で隠居するまで藩主の座にあり続けました。真田松代藩十万石の礎を築いた人物であり、以後、松代藩は明治維新まで約250年、真田家十代の治世が続くことになりました。
現在の松代城跡では、太鼓門や石垣、堀が復元整備されており、四季を通じて美しい景観を楽しめます。桜の名所としても知られ、春には多くの花見客で賑わいます。この整備は平成7年度から平成16年度にかけて実施された「松代城跡第1期整備」によるもので、江戸時代の絵図資料と発掘調査の成果をもとに、専門家による整備委員会が検討を重ね、文化庁の指導のもとで進められました。本丸にあった3か所の櫓門のうち最大規模の太鼓門は、高さ11.8メートルの櫓門と橋詰門と呼ばれる高麗門、これらをつなぐ続塀とともに復元され、江戸末期の城郭空間がよみがえっています。整備に伴う発掘調査では、本丸や二の丸にあった御殿や門の礎石、地表下深くまで続く石垣、内堀にかかっていた橋の橋脚なども確認されました。
真田邸は九代藩主が母のために建てた御殿建築で座観式庭園も見どころ
松代城を中心とした城下町には、真田家ゆかりの史跡や文化財が徒歩圏内に集まっています。ウォーキングコースで訪れられる主要なスポットを、施設ごとに紹介します。
真田邸は、江戸時代末期の元治元年に松代藩九代藩主・真田幸教が義母の貞松院の住まいとして建てた松代城の城外御殿で、当時は新御殿と呼ばれていました。江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務づけられていましたが、文久2年の文久の改革で参勤交代の制度が緩和され、妻子の帰国が認められるようになったことから、松代にもこうした屋敷が必要になった経緯があります。
主屋、表門、7棟の土蔵、庭園が一体となって残されており、江戸末期の御殿建築の様式を良好に伝える、全国でも数少ない大名家の御殿建築の遺構です。庭園は京都の公家屋敷の庭園を模したとも伝わりますが、詳しいことは分かっていないようです。座観式のこの日本庭園は四季折々の風情も見どころの一つで、松代城跡と一体のものとして国の史跡に指定されています。入館料は一般400円、団体300円、小中学生100円、団体50円です。
真田宝物館は5万点の収蔵品を誇り青江の大太刀が目玉展示
真田宝物館は、真田家十二代当主の幸治氏から昭和41年に譲られた武具、調度品、書画、文書などの大名道具を収蔵、展示する資料館です。松代藩真田家の歴史と大名道具を紹介する常設展示室と、テーマを定めた企画展を行う企画展示室で構成され、収蔵品はおよそ5万点にのぼります。年4回展示替えが行われ、そのたびに実物資料の大部分が入れ替わるため、訪れるたびに違う顔を見せてくれます。
目玉展示の一つが、長篠の戦いで戦死した真田信綱が用いたと伝わる重要文化財、青江の大太刀です。刃長103センチメートル、重さは通常の刀剣の2倍以上にあたる1.5キログラムに達し、現在の岡山県倉敷市周辺で活動した青江派の刀工による南北朝時代の作とされています。このほか、真田昌幸が着用したとされる昇梯子の甲冑をはじめとする武具、調度品、古文書、歴代藩主の書画に加え、豊臣秀吉、石田三成、徳川家康、武田信玄といった戦国大名からの書状も所蔵されており、大名家ならではの史料をまとまった数で鑑賞できます。入館料は一般600円、団体500円、小中学生100円、団体50円です。毎週火曜日は休館で、祝日にあたる場合は開館します。年末年始も休館日です。
旧松代藩文武学校は安政2年開校の学び舎で砲術体験もできる
安政2年に開校した松代藩の教育施設が、旧松代藩文武学校です。文武両道を重んじる藩の方針のもと、学問と武道を教える学び舎として設立されました。文学所では当時の学習の様子を伝えるガイダンス映像が上映され、柔術所では砲術体験など、教育の雰囲気を実際に体感できる展示が用意されています。入館料は真田邸と同じ一般400円、小中学生100円です。
旧樋口家住宅は湧水路が敷地を流れる武家屋敷の遺構
樋口家は江戸時代に真田家に仕えた武士の家柄で、江戸後期には230石の禄高を有していました。屋敷内には湧水路が東西に流れ、主屋、土蔵、長屋、屋敷神を祀る祠、表門、土塀、木塀などが今も残っています。主屋、土蔵、長屋は長野市の文化財に指定されており、現在はNPO法人が管理し、展示会や体験イベントも開かれているようです。武家屋敷ならではの静かなたたずまいを味わえる場所です。
象山神社と松代象山地下壕で幕末から昭和の歴史をたどる
松代は幕末の思想家・佐久間象山を輩出した町でもあります。象山神社は佐久間象山を祀る神社で、境内には象山が生まれてから29年間を過ごした邸宅跡、蟄居中に客間や書斎として使った高義亭、蟄居後に京都で構えた家の茶室を移築した煙雨亭が残されています。
象山神社に隣接する象山記念館では、佐久間象山が遺した発明品や書、印章などを展示しており、その業績を体系的にたどれます。開館時間は9時から17時まで、祝日を除く毎週火曜日が休館日で、入館料は一般250円、小中学生100円です。
松代藩初代藩主・真田信之の正室であった小松姫の菩提寺、大英寺も松代の見どころの一つです。小松姫は本多忠勝の娘で徳川家康の養女にあたる人物です。本堂はもともと小松姫の霊廟として建てられたもので、極彩色の柱や梁による華やかな装飾が施された建築が特徴になっています。
佐久間象山は勝海舟や吉田松陰を育てた幕末の思想家だった
佐久間象山は文化8年、信濃国埴科郡松代、現在の長野市松代町で、松代藩士・佐久間一学国善の長男として生まれました。天保4年に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に学び、天保10年には自ら江戸に塾を開いています。この私塾には勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰など、のちに幕末維新期を動かすことになる若い才能が集まりました。藩主・真田幸貫から海外事情の研究を命じられた象山は、天保13年に海防八策を上書し、江川太郎左衛門から西洋砲術を学び、黒川良安からオランダ語を習得するなど、儒学者でありながら兵学者、科学者としての顔も持ち合わせていた人物です。
安政元年、門下生の吉田松陰が起こした海外密航未遂事件に連座して松代に蟄居となりましたが、文久2年に赦免されました。その後、元治元年には一橋慶喜に招かれて上洛し、公武合体論と開国論を説きましたが、同年7月11日、京都三条木屋町で尊王攘夷派の志士らに暗殺され、54歳の生涯を閉じています。混迷する幕末の日本で公武合体と開国を唱え続けた象山の思想と足跡は、今も象山神社の境内に残る建物からうかがい知ることができます。
松代大本営は9か月の突貫工事で総延長10キロを掘削した
象山神社からほど近い場所には、松代象山地下壕があります。太平洋戦争末期、本土決戦に備えて政府中枢機関や大本営を移転させる目的で掘削された巨大な地下壕で、松代大本営とも呼ばれます。戦争の歴史を伝える戦跡として、現在も一部が公開されており、平和学習の場として多くの見学者が訪れています。
建設は昭和19年11月11日から、終戦の日にあたる昭和20年8月15日までのおよそ9か月間にわたる突貫工事でした。計画では総延長13キロメートルの大規模な地下壕とされていましたが、終戦までに全工程の約8割、10キロメートル余りが掘削された状態で工事は中断しています。この建設には多くの朝鮮人労働者が動員されたことが記録に残っており、証言などによれば約6000人の朝鮮人労働者のうち約4000人が、少なくとも5回にわたって強制的に連行されてきたとされています。労働者たちは三角兵舎と呼ばれる粗末な住居で暮らし、高梁や大豆、麦、とうもろこしの粉といった粗末な食事のもと、1日2〜3回の交代制で長時間労働に従事したと伝えられています。松代象山地下壕を訪れる際は、こうした戦争の負の歴史にも向き合う姿勢が大切です。
川中島古戦場へは松代城跡から車で10分ほど
松代城跡から車でおよそ10分の距離に、武田信玄と上杉謙信が激突した第四次川中島の戦いの舞台、川中島古戦場史跡公園があります。旧称は八幡原史跡公園です。約12000平方メートルの築山状の芝生広場を中心に整備された公園で、隣接する八幡社の境内には、両雄の激闘を今に伝える信玄・謙信一騎討ちの像が設置されています。
この一騎討ちの場面は、妻女山に布陣していた上杉謙信の軍勢に対し、軍師・山本勘助が啄木鳥戦法と呼ばれる奇襲策を献策したことに端を発します。乱戦の中、謙信自らが騎馬で武田本陣に斬り込み、床几に腰掛けていた信玄に太刀を浴びせ、信玄がとっさに軍配でこれを受け止めたという場面は、戦国史上でも屈指の名場面として語り継がれてきました。松代の文化財めぐりコースとあわせて、車や自転車で川中島古戦場まで足を延ばせば、川中島の戦いの臨場感をより深く味わえます。
松代の文化財めぐりコースは徒歩2〜3時間で主要スポットを一巡できる
信州松代観光協会が案内する松代の文化財めぐりコースは、徒歩約2〜3時間で主要な文化財を巡れる定番のウォーキングコースです。松代駅、旧松代駅舎や観光案内所を起点に、次のような順路で歩くのが一般的なモデルコースとされています。
まず松代の玄関口である松代駅周辺からスタートし、白壁の土蔵や旧家が立ち並ぶ町並みを眺めながら中心部へ向かいます。次に松代城跡に立ち寄り、復元された太鼓門や石垣、堀を見学します。桜の季節なら、ここで足を止めて花見を楽しむのもよいでしょう。
松代城跡から歩いてすぐの距離に真田邸、真田宝物館、旧松代藩文武学校が隣接して並んでおり、まとめて見学するのが効率的です。三施設共通の観覧券も用意されているので、じっくり見て回りたいときは活用してください。
そこからさらに南へ足を延ばすと、旧樋口家住宅や旧前島家住宅といった武家屋敷群が点在するエリアに着きます。細い路地や水路沿いを歩きながら、城下町らしい風情を味わえるでしょう。
松代城下町を歩く際に注目したいのが、江戸時代に築かれた泉水路と呼ばれる水路網です。城下町の武家屋敷は敷地内に泉水、庭池を設け、そこに水を引き込む水路を張り巡らせており、現在もその一部が国の登録有形文化財として保存されています。旧樋口家住宅の敷地内を東西に流れる湧水路も、こうした泉水路の一つです。江戸時代から続く水利用の工夫と、城下町ならではの景観を今に伝えています。水路の流れに目を向けながら歩くと、史跡見学だけでは気づきにくい、生活文化としての城下町の奥行きが見えてきます。
町の南西側には象山神社と松代象山地下壕があり、佐久間象山ゆかりの史跡や戦争遺跡を見学することで、江戸時代から昭和にかけての松代の歴史を通して学べます。
松代の文化財めぐりコースは、戦国時代の海津城、江戸時代の松代藩、幕末の佐久間象山、そして太平洋戦争の松代大本営まで、異なる時代の歴史が一つの町にまとまっている点が大きな魅力です。徒歩2〜3時間というほどよい距離感も、気軽な歴史散策やウォーキングの行き先として選ばれる理由の一つになっています。
松代へは長野駅からバスで30分、車なら長野インターから近い
松代へのアクセスは、JR長野駅善光寺口のバスのりば3番から松代高校行き、または松代方面行きのバスに乗車し、約30分です。象山地下壕を目指す場合は松代八十二銀行前で下車し、徒歩約20分ほどかかります。松代城跡や真田邸周辺を目指す場合は、松代駅のバス停で下車すればそこから徒歩5分程度です。
車で訪れる場合は、上信越自動車道の長野インターチェンジから比較的近く、町内には観光客向けの駐車場が複数あります。象山地下壕付近の代官町駐車場、象山東駐車場には普通車8台、大型車7台分のスペースがあり、そこから地下壕までは徒歩約7分です。大型車両については市営の代官町駐車場、利用時間は8時45分から16時30分で無料で利用できます。松代城跡周辺にも観光客用の駐車場が整備されているため、車での来訪もしやすい環境が整っています。
松代地区には2010年10月に松代まち歩きセンターが開設されており、地図やパンフレットの配布、観光案内を行っています。初めて訪れるなら、まずここに立ち寄ってコース情報を入手してから散策を始めるとよいでしょう。
松代藩真田十万石まつりは2025年10月11日と12日に開催された
松代を訪れるなら、毎年秋に開かれる松代藩真田十万石まつりの時期に合わせるのも一つの楽しみ方です。真田家十代、250年にわたる善政をたたえる秋祭りで、松代城跡を中心に城下町全体が祭りの雰囲気に包まれます。
2025年は10月11日と12日の二日間、第70回目となる祭りが開催されました。目玉は松代藩真田十万石行列で、武者や姫様に扮した総勢250人ほどの参加者が城下町を練り歩きました。あわせて真田勝鬨太鼓の演奏や、江戸時代の城下町を再現したまつしろ御城下大市も催され、歴史ロマンを感じながら過ごせる二日間になったようです。祭りは例年秋に開催されているため、次回以降の開催時期については信州松代観光協会の発表を確認するのが確実です。
祭りの期間中は普段より多くの観光客で賑わうため、ウォーキングコースを静かに散策したいなら祭りの前後の時期を選ぶのも一案です。反対に、賑やかな雰囲気の中で城下町の歴史を体感したいなら、祭りの開催時期に合わせて訪れるのもよいでしょう。
松代のご当地グルメはおやきと信州牛、そばが定番
ウォーキングで歩き疲れたら、松代ならではのご当地グルメで一息つくのもよいでしょう。松代地区の名物として知られるのがおやきです。小麦粉やそば粉の生地に小豆や野菜などで作った餡を包んで焼き上げた郷土料理です。旨みのある柔らかい肉質と独特の香りが特徴の信州牛、信州味噌ベースのタレに松代産の長芋と温泉玉子をのせた長野ヤキメンも、松代で味わいたい名物料理として挙げられます。
そば処も充実しています。文政10年創業という老舗のそば屋では、黒姫産のそばを石臼で自家製粉した十割そばや、くるみ汁やとろろ汁で味わうごくらくそばが人気を集めているそうです。城下町散策の合間に、こうした老舗の味を楽しむのも松代らしい過ごし方です。
松代地区には松代温泉もあります。黄金の湯として知られる松代荘などの温泉施設では、地元のブランド食材を活かした四季折々の創作会席料理も提供されています。ウォーキングで汗を流したあと温泉でゆっくり疲れを癒やし、地元の食材を使った料理を味わう、一日がかりの旅程を組むこともできるでしょう。
松代城下町は、戦国時代の海津城、江戸時代の真田十万石の城下町、幕末の佐久間象山、太平洋戦争末期の松代大本営という、時代の異なる複数の歴史が一つのコンパクトなエリアに積み重なった町です。真田家の家紋である六文銭は単なる装飾的な紋章ではなく、滋野一族の時代から受け継がれてきた武家の気概を示すものであり、町のいたるところに掲げられたこの紋章を目にしながら歩くと、松代という町の歴史の厚みがより伝わってきます。
松代城跡、真田邸、真田宝物館、旧松代藩文武学校、旧樋口家住宅、象山神社、松代象山地下壕といった見どころを徒歩2〜3時間程度でまとめて巡れる文化財めぐりコースは、本格的な歴史散策としても、日常の運動を兼ねたウォーキングとしても満足度の高いコースです。長野駅からバスで30分というアクセスの良さもあり、日帰りでも十分に楽しめます。桜や紅葉の季節、秋の真田十万石まつりの時期など、訪れる季節によって違う表情を見せてくれる町なので、何度歩いても新しい発見があります。








